鶉神社境内に高さ2.7m(九尺)×幅0.9m(三尺余)の自然石を配した碑が立っており、
毎春、記念祭が行われる。これが大正七年四月に建立された鶉農場の「開拓記念碑」
であり、別に「山内翁領徳碑」ともいわれており、山内甚之助の生前に織田四郎、
木田市右衛門、織田万吉、岡島太三郎、織田勝三郎、加藤助蔵、荒木政雄、滝波岩松
が発起人となり、甚之助の "上砂川の祖" としての功績をたたえるとともに、
鶉農場開拓の歴史を子々孫々に伝えることを趣旨として建立されたものである。
(撮影 2003.03.22)
「碑文」
空知郡砂川駅の東一里許(ばか)りに聚落を為す、名づけて鶉農場と日(い)う。
邱阜(きゅうふ)迫る処一水西流す、峡間之地頗(すこぶ)る農耕に適す。
明治三十年四月越前の人山内甚之助来り相(想)し、帰りて若林衡等と謀(はか)り、
請うて未開地五十二万余歩を得、尋(つ)いで農九戸を募りて共に移る。
場名は蓋(けだ)し故郷鶉村に取干(とりたる)也。此れより煙火漸く盛んに、
鶏犬相聞ゆ、拓きし所之良圃二百余町、穀篩歳(年)に三万円を算す。
惟(おも)うに甚之助資性剛直、友誼に篤く、嘗(かつ)率先して教育所を設け、
又衆を説きて地を佃子(でんこ)に頒(わか)ち、荒怠を戒め奢侈を制し、
自ら儀範を示せり。是に以て、俗(習俗)は則(すなわ)ち勤倹にして醇撲、家は
則ち豊裕にして諧和す。交通は開けり、教化は洽し、真(まさ)に一箇之楽土を
成したる也。而(しこう)して其の能く此に至るは、必ずや源有るべし、
即ち固(もと)より部民の刻苦びん勉の余に出でずと雖(いえど)も、抑亦(そもそもまた)
、甚之助の指導啓発之功に由らずんば非ず。今茲に部民胥(あ)い謀りて碑を建て、
以て不朽に伝えんと欲し、子に文を索む、乃(すなわ)ち其の梗概を叙す。
大正七年戊午四月
従六位 細川碧謹撰
実物は漢文で刻まれていて難解なので、解釈して掲載した。
山内甚之助は大正十五年一月二十三日に、七五歳の天寿を全うして他界し、
鶉部落葬をもって手厚く葬られたが、その功労はパンケウタシナイ川の流れと
ともに不滅である。

(撮影 2003.03.22)
「新上砂川町史より」
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