歴史(昭和元年-20年)

ここに掲載する資料は、昭和63年発行の 「新上砂川町史」より引用しています。

[昭和21年-40年] [昭和41年-64年]
年号(西暦) 上砂川地区でのできごと、 砂川 歌志内などでのできごと
昭和 元(1926)
昭和 2(1927) 1月 上砂川小学校児童保護者会発足。
2月 三井主婦会誕生。
4月 砂川女子青年団創立。
8月 パンケウタシナイ川氾濫、橋梁流出など被害大(被害額6万円余)。
11月 区設置規程の制定により、砂川全町従来の「22部」を「35区」とする。 9区鶉農場、20区三井鉱業所用地、22区上砂川市街地、沢田富士太郎22区長 となる。砂川町で三井に5日ごとに事務吏員派遣。
この年三井「三渓園」ほぼ完成する。
昭和 3(1928) 4月 三井砂川鉱業所女子青年団及上砂川少年団結成。
5月 三井砂川鉱夫倶楽部「翌年に娯楽館と改称」を建てる。 砂川町と歌志内町との間に境界問題起る。
6月 ラジオ受信家庭142戸。三井親和会機関誌すな川「現在の砂川春秋」創刊。
7月 三井美唄鉱誕生。
9月 上砂川ゆかりの歌人若山牧水没す。鉱業所米供給所の隣に直営魚菜店できる。
10月 砂川砂利場で汽車博覧会を開催。
この年三井保安委員会を設置、安全デー・安全週間等の事業を行う。
砂川に高女校設置運動起る。
本年以降、奈井江炭田調査を本格的に行う。
昭和 4(1929) 2月 御大典記念碑除幕式。上砂川小学校全焼。三井砂川鉱業所柔道部設置。
3月 上砂川郵便局、電話交換業務はじめる。
4月 奥沢及び西山地方の御料地を社有地とする。
5月 北海土功組合灌漑溝通水、豊沼地方に造田行われ、 移住者増える。
大日本修養団上砂川支部発足。上砂川青年訓練所を私立三井砂川鉱業所青年訓練所 に変更。
6月 三井、第四坑採掘はじめる。砂川商工会設立。
7月 三井納骨堂・火葬場できる。三井病院前から記念公園までの道路できる。
10月 上砂川禁酒会生まれる。
11月 上砂川小学校、新校舎できる。
この年山神社を現在値に移転。三井、粉炭水洗機主流・再洗機完成操業開始。 三渓園に石碑立つ。
昭和 5(1930) 1月 砂川神社、郷社に昇格。
5月 上砂川神社を現役場裏附近に移転。
11月 三井礼拝堂(無常堂)できる。国勢調査、世帯数 4,238、人口2万896人(砂川町)。
12月 寄留届及び出産届、三井労務係で取扱いはじめる。三井女子青年団、東鶉の 失業者を見舞する。ジャンプ台できる。
この年鶉市街実業組合を上砂川商工会とする。上砂川魚菜市場二条四丁目に移転。
昭和 6(1931) 2月 ロータリー除雪車、上砂川線を訪れる。三井親和会、東鶉失業者を見舞する。 第四坑の操業開始。
4月 三井病院に隔離病室できる。西山小学校廃校。
5月 三井野球部(硬式)発足。
6月 三井青年訓練所にラッパ鼓隊設置。
12月 三井、温泉沢奥に二階建、ベッド20人のヒュッテ設置。
この年砂川大凶作のため、救済事業として砂利敷事業を 起す。
昭和 7(1932) 4月 三井親和会内に主婦会誕生。三井、初めてのトーキー映画、娯楽館で上映。
5月 中町にテニスコートできる。
6月 三井新グラウンド上砂川駅裏に完成。
9月 三井、鉱業祝について歌志内町村境界問題として行政訴訟起し、砂川町も参加
11月 三段跳びロス金メダリスト南部選手来山。奥沢集会所落成。
12月 砂川町女子青年団上砂川支部(市街)発足。
この年砂川町の水害、浸水家屋354戸、農作物に多数の 被害。文珠への道路改修。凶作。
昭和 8(1933) 1月 砂川、奈井江、上砂川を合体し、砂川商業組合を結成。
3月 松竹映画社有名俳優ロケのため来山。
4月 砂川鉱業所16ミリ映画作成。砂川町町村経済更正 計画をたてて窮民救済、災害復旧、農村振興の土木事業に31万円支出。
10月 渡辺淳一出生(現朝陽台二区三六号)。
11月 砂川町・歌志内村の境界問題解決。
この年三井木材でスキーを製造し、海外に輸出。 証法寺落成。鶉火防隊できる。
昭和 9(1934) 1月 二坑斜坑で鉱業所はじめての炭壁突出事故発生。
2月 主婦会を「婦人国防会議三井砂川鉱業所支部」とする。同年九月「大日本 国防婦人会三井砂川鉱業所分会」に改称。新楽劇部設立第1回公演。
3月 納税組合設立。
6月 三井、拡声装置を購入。三井本店から16ミリ撮影機と映写機届く。
7月 北海道石炭礦業界で模範従業員の表彰はじめる。
9月 親和会機関誌「すな川」、新聞紙法適用し「すな川新聞」となる。
10月 三井、鉄製2トン炭車使用はじめる。すな川俳句会誕生。上砂川岳にヒュッテ 移設。
11月 鶉小学校に電話とラジオ寄贈される。
12月 第二坑北坑閉鎖(大正6年5月開坑)。
昭和 10(1935) 1月 すな川新聞速報写真板設置。鶉小学校を上砂川鶉小学校と改称。
4月 文部省令により、青年訓練所を私立三井砂川鉱業所青年学校として認可。
5月 市街地に自動車ポンプ(消防)を配置。北大栃内博士、名木水松の診察のため 来山。
6月 洋画研究会できる。
7月 砂川町字名・地番改正。市街を字上砂川町、炭鉱地区を字上砂川、鶉農場を 字鶉とする。
8月 明治大学交響管弦楽団来山。
9月 鉱業所青年学校に女子部を開設。社宅街の名称を本町、中町、奥沢町、東町 と統一し、橋梁・山の名称を改正。
10月 山神社現在地に完成(11月2・3日遷宮式)。日泉寺二条十二丁目現稲葉電気 裏に移転落成。
11月 三井、砂川鉱業史編さん準備する。上砂川少年少女団・上砂川鶉青年学校に 女子部生まれる。砂川炭鉱小唄と行進曲できる。(11月17日レコード到着)。
この年鶉小学校植林地を買収。
昭和 11(1936) 1月 三井二坑南坑でガス爆発21名死亡。
6月 相撲部発足。
7月 三井、警鐘やぐらに大サイレン取付け。
8月 礼拝堂で鉱業者殉職者追悼会を行う。田島直人オリンピック・ベルリン大会で 三段跳びに優勝。
9月 陸軍大演習で、天皇陛下、砂川町に行幸。砂川二代 町長に佐藤伊久馬就任。中町・奥沢・東町に三井の直営魚菜店できる。
10月 音楽部第1回演奏会を娯楽館で開催。
11月 三井、出炭日産4,000トン達成。田島選手、山神社に優勝記念植樹。
12月 三井、第五坑採掘はじめる。妹背山中腹に大シャンツェ(全道3位)完成。
この年道弘寺・信徳寺落成。市街道路側溝コンクリート工事実施。
昭和 12(1937) 1月 三井退職手当規程できる。国防婦人会砂川分会上砂川市街地班発足
2月 職員集会所を「朝陽ヶ丘会館」と命名。
3月 伝染性流行性脳脊髄膜炎発生。
4月 職員社宅町名を「朝陽台」と命名。
6月 第六坑開さくに着手。
7月 三井野球場現在地(町営)に完成。青地球麿男、日米対抗競技予選会で上砂川校 優勝する。第二坑・三坑深部開さくに着手。
10月 公園の熊、熊祭で処分する。
12月 上砂川小学校御真影奉置所竣工。
この年三井、事業を拡張、年間出炭108万トン。三井が 中心となっての東洋高圧工業所の砂川町への誘致が成功、翌年にかけて用地の買収 を進める。
昭和 13(1938) 1月 上砂川鶉小学校に高等科併設。
2月 鉱業報国運動はじまる。
3月 市街一条二丁目附近の大火九戸焼失。
4月 上砂川尋常高等小学校、砂川町歌志内村の組合立学校となる。親和会陸上 競技部機関紙「砂走」発刊。自治制施行50年記念式典 を砂小で挙行。砂川高等家政女学校開校。
5月 三井若生ヶ原綜合グラウンド(現上中校舎地)できる。
7月 鉱業所久留次長(親和会長)上京中急逝する。本町・東山間の「あかつき橋」 完成(現暗渠)。
8月 三井開坑以来の殉職者207名と記録あり。
12月 上砂川・文珠間自動車道路開通。
この年東町巡査駐在所できる。火力発電所建設。
昭和 14(1939) 3月 砂川軍友会結成。
4月 三井砂川鉱業所青年学校に養成部新設。三井親和会を産業報国三井砂川共愛 組合とする。上砂川消防組及び防護団をそれぞれ警防団に改組する。上砂川駅前 巡査駐在所できる。三井、中町・奥沢(六月)・東町(同)に労務詰所を設ける。
8月 拓殖銀行滝川支店砂川出張所開設。
9月 毎月一日を興亜奉公日と定める。
10月 第六坑と第二坑の連絡なる。第七坑採掘はじめる。上砂川商業組合結成。 東洋高圧北海道工業所建設に着手。国勢調査の結果、 世帯数5,226、人口2万7,133人(砂川町)
11月 朝鮮人労務者来山。
この年鉱業報国月間始まる。
昭和 15(1940) 1月 三井「すながわ新聞」講読料と「本町浴場」入浴料廃止。
2月 白熱ストーブ出廻る。三井、本町に労務詰所(現児童館附近)設ける。
5月 石狩火力発電株式会社、豊沼に発電所建設着手。
6月 炭山郵便局開局。町役場出張員、砂川町は中町労務、歌志内町は東町労務に 出張。
8月 三井殉職者264名、戦没者37名と記録。
9月 三井青年学校新校舎完成。
10月 炭山郵便局新局舎現在地に完成移転開局。砂川開基 50周年記念式典挙行。
11月 三井コークス炉起工式。砂川町立社会病院開設 (12月3日開院)
この年市街町内会誕生。年間出炭161万2,000トン、開坑以来最高出炭量。
国民服と標準服

昭和15年11月に「国民服令」という、いまでは奇異に聞こえる法令が出された。 これは、戦争が長引くにつれ、極度の繊維不足が露呈したことと、銃後諸活動の 歩調を整える必要とを考えて、服装の無駄を省いて統一しようとしたもので、

男子成人カーキ色の「国民服」と戦闘帽(折り返し付)にゲートル着用のスタイル。 女子成人上っぱり風の「標準服」(簡単服)にモンペばきのスタイル。
に塗り替えられたが、上砂川でも、
どんな場合でも男は国民服、女は標準服で通したものである。また、これが当然の 式服とされ、女は標準服の上にかっぽう着と国防婦人会のたすきをかければ、 どんな時でも通用した。結婚式の花嫁もそのような服装であったし、一部には紋付の 下にモンペをはき頭は角隠しの人もあった。また、古い着物を利用しての廃物利用 展や創意工夫展なども開かれ、当時の婦人たちは、そうしたものを着ることを、 むしろ誇りに思っていたし・・・
といった風情が描かれていた。
昭和 16(1941) 2月 東町女子青年団発足。
3月 三井町内会連合会できる。
4月 歌志内町西山に役場定期出張所開設。上砂川尋常高等小学校を第一国民学校に、 鶉尋常高等小学校を第二国民学校と校名変更。上砂川第二国民学校が砂川町歌志内町 組合立国民学校となる。町立砂川高等女学校開校。 厚生省令により三井青年学校養成部を技能者養成所に切替。青年学校、義務制となる。 鶉町労務事務所(スポーツハウスを転用)できる。
7月 三井、第二選炭機完成。
8月 火葬場が本町から現在地に移転し、墓地ができる。
9月 三井、ラジオ加入者宅へ公休日に昼間送電はじめる。三井、 朝鮮労務者契約更新者産業挺身隊を結成。
10月 砂川町役場出張所を駅前案内所に開設。
11月 第1回三井砂川美術展開催。
この年統制組合設立(砂川)。
欲しがりません

日華事変中は、戦時とはいえ、曲りなりにも子供たちは玩具(おもちゃ)、菓子類、 絵本などを手にいれることができた。例えば、手近な市街の商店でも、1銭 (1円=100銭)で子供の口には大きすぎるほどの飴が買えたのである。 しかし、昭和16年ころからは、金を持っていても、なかなか飴を買えなかったり、 遊び道具などはほとんど手に入らなくなったりで、神社の祭典でも、子供たちは "小づかい"の使いようがないありさまとなったが、子供たちは、

「戦争をしているのだから仕方がない」
「勝つためには、がまんするのだ」
と不平もいわず、がまんしていた。

そこまで童心にしみ込んだ"欲しがらない"心根は、何であったのか─当時、政府は 耐乏生活強調の標語を全国から募集し、その中から『欲しがりません、勝つまでは』 を選んで、組織的に全国に流していたことによるもので、いたいけな童心には、 大人以上に切実な臨戦感として映ったからであった。

昭和 17(1942) 4月 町立砂川中学校開校。
6月 三井、家族手当の支給をはじめる。
7月 第一国民学校(上小)開校25年記念式。主婦会を大日本婦人会砂川町支部三井 砂川鉱業所班とする。
12月 石炭確保挺身隊(深川・砂川・歌志内・青森県鯵ヶ沢)51名入山後、勤労報国隊 と改称、道内外から続々入山。豊沼郵便局開局。
昭和 18(1943) 2月 三井鶉町集会所できる。
4月 対米決戦大空知総進軍砂川町民大会開催。
5月 三井に発疹チフス流行。
6月 学徒勤労報国隊入山はじまる。
7月 第一国民学校(上小)体錬場(屋体)できる。
9月 豪雨水害による被害大。
10月 砂川中学校焼失。
この年軍需工場就職斡旋。上砂川商工会解散する。
食糧難との闘い・代用食

主食配給の内容が怪しくなってくると、人参が山のように配給されたり、あるいは 昆布、蕗(ふき)、澱粉かすなども、主食代りに配給されるようになった。したがって、 「主食は米、麦」といった考えは崩れ去り、雑穀や馬鈴薯や南瓜、あるいは粉類 (麦粉や澱粉)が主食の座にのし上がることになったが、こうした傾向の食事を、 本来の物に対し"代用食"と呼ぶようになった。

澱粉や麦粉などは、いつも食べたりしないで、来客用にとっておいた。正月はもっと 惨めで、期待のもち米の配給がないので(あるにはあったが雀の涙ほどで、搗くと 臼のあちこちにくっついて無くなるほど)鏡餅は瀬戸物の模造品で間に合わせたり した。また、昭和昭和16年ころからの配給米には、籾殻がたくさん入っていて、 それを取り除くのも一苦労であったが、これは外地米を輸入(玄米で)したあとの精米 不充分のせいであったらしい。その他、澱粉かすなどは、中に馬糞が混じっていたこ ともあったりして、とても、いまでは口に入るようなものではなかった。
昭和 19(1944) 1月 中町浴場できる。
4月 三井、軍需会社の指定を受け全員に御用告知書を伝達。庁立小樽工業・札幌工業 学徒により東山坑開坑。奈井江地区を砂川町から分村して 奈井江村となる。
7月 学徒勤報隊函館工業入山。
8月 中国人労務者入山。チャラセ沢に第一国民学校(上小)の水泳場できる。
9月 三井軽音楽団できる。すな川新聞に「すながわ歌壇」新設、選歌川村濤人。
10月 上砂川神社を現在地に移転。
11月 小樽工業学徒勤報隊入山。
この年暴風雨に見舞われ、倒壊家屋65戸。
昭和 20(1945) 1月 三井従業員の職名を改称。
3月 町立砂川高女、道へ移管、庁立と改称。
4月 天理教ひのきしん隊、勤報隊として入山。三井保養所「厚生館」できる。
8月 三井事務所前に敢斗像完成。
9月 三井旬体制を廃止して週休制(毎日曜日)とする。産報会中央本部解散。
10月 中国人送還完了。北洋火薬工場設置。
11月 炭礦労務者充足緊急対策実施、食糧確保と賃上げ。砂川炭鉱労働組合結成 する。
12月 朝鮮人送還完了。佐藤伊久馬町長退職、三代町長川口 常作就任。鉱員ばかりの「復興挺身隊」を結成する。
この年汽車の切符購入困難。物々交換所できる。徳田球一、上砂川に来る。 タンポポ童話会できる。
異人の離山

昭和20年11月から、中国人の送還と朝鮮人の帰国が始まり、12月には 若干の残留希望朝鮮人以外は、すべて上砂川から去って行き、炭山に平静が戻った。

終戦となり、石炭増産に挺身した朝鮮人労働者も独立を約束され、故郷へ新しい 希望を胸に、住み馴れた炭鉱の街に別れを告げた。この年の12月4日には一挙に 千百余名が臨時列車で退山することになり、鉱業所の音楽部員が駅頭で別れの歌の 数々を奏して、今までの労をねぎらった。歓送を受けた朝鮮人たちは、皆感激し、 汽車の窓から身を乗り出して、サヨナラを叫びながら帰っていった。
[昭和21年-40年] [昭和41年-64年]

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